研究紀要

2021年4月1日/記

(美術の終末、芸術の終末 番外)

終末論から読み解くバンクシー(続続)

三頭谷鷹史(みずたにたかし/美術評論家)

何でもかんでも「芸術」に結びつけるのはよくない。その弊害を取り除くためにも「表現」から再出発する必要がある。バンクシーの場合は、特にこのことが重要であり、表現の視点から考察を進めていこう。

じゃあ、バンクシーはどんな表現活動をしてきたのか、である。これは多くの人が認めるとおり、一番の軸は「風刺」表現である。ただ、そうは言っても実際にはもっと多様な表現が見られるのも事実である。風刺表現の話に入る前に、その一部について簡単に触れておこう。

図1

風刺と決めつけてはいけない

バンクシーの表現を個々に見ていくと、風刺性とそれ以外との切り分けが意外にむずかしいことに気づかされる。例えば「風船と少女」、オークション会場でのシュレッダー事件で、美術品売買に対する強烈な風刺となり、世界中の人が知ることになった。今ではバンクシーの代表作である。しかし、以前から登場するこの絵に風刺性があるのかどうかとなると、今一つはっきりしない。時、場所、文脈などによって、この絵の果たす役割や意味が変わるのである。他の作品も見てみよう。

イギリスのロックバンドであるブラーのアルバム「シンクタンク」で見せたアートワークは、どうだろうか。古式の潜水ヘルメットらしきものをかぶった男女がハグする不思議な絵だ。潜水ヘルメットに風刺性があるのかどうか、私は知らない。風刺の文脈で見ないので、かえって不思議さが際立つように思える。

同じく潜水ヘルメットを着装した作品がある。「年をとったからって会話がうまくなるわけじゃない」(図1)のことだが、風刺?、むしろメルヘンのような味わいがある。そして、ヘルメットをかぶった少女の不思議さと愛らしさが重なって、いっそう可愛らしくなっている。また、ちょっとアンニュイな雰囲気の酔いどれ天使(図2)も面白い。バンクシーのその時の心情をストレートに語ったタイプのもの、かもしれない。

空爆で廃墟となったガザ地区に描かれた子猫「Giant Kitten」(図3)の場合、風刺という見方もあるが、犠牲となった多数の子供たちへの鎮魂の意味合いが強いように思われる。極めつけは、2019年のクリスマスの時の、バーミンガムの裏通りのベンチとホームレス男性が登場するショートムービーだ。風刺どころか、バンクシーからの心温まるクリスマスプレゼントである(注1)。バンクシー作品だからといって、風刺と決めつけてはいけないのである。

図2、3

(注1) YouTubeで「bench Birmingham」を検索。バンクシーのインスタグラムでも視聴可能。

スマイルフェイスの死神

上に記したとおり、バンクシーには多様な表現活動がある。それを前提にした上で語るのだが、やはり風刺表現が一番の軸である。また、風刺表現といっても様々なジャンルやスタイルがある中で、バンクシーの風刺表現には一定の傾向がある。風刺の対象となっているのは、権力や権威、社会問題などで、それも茶化す、冷やかすといった次元ではなく、批判や否定の意をはっきりと込めた風刺が多い。わかりやすい一例が、イラク戦争反対デモの時の反戦プラカードである。

2003年3月、イラクの大量破壊兵器保持を理由に、アメリカを中心にイギリスなども加わった有志連合軍がイラクを攻撃した。兵器保持に確証のないまま(のちにガセだったと判明)、長い戦争が始まってしまったのである。反戦デモが起き、バンクシーは「WRONG WAR」の言葉が書かれたプラカードを製作し、配り、自分も携えてデモに参加したようだ。デモに参加することでガチの反戦の意を示したわけだが、当然ながら、その意志表示こそプラカード表現の動機であり核心部分である。

とはいえ、プラカード表現にはバンクシーならでは工夫があった。あるプラカードには、「WRONG WAR」の言葉とともに攻撃用ヘリの絵が描かれ、反戦を表現する上での視覚的な効果を高めている(図4)。リボン付きのヘリという軽いひねりはあるものの、しかし、この程度なら、他のデモ参加者でもやっていそうだ。別のプラカードを見てみよう。「WRONG WAR」の言葉とともに、大鎌をもった死神が描かれていて、やはり視覚的な効果を高めている。が、死神の顔は可愛らしいスマイルフェイスであり、そのギャップに笑え、萌える(図5)。

こうしたユーモアは、たとえガチの反戦思想が核心にあっても、ガチガチの反戦デモ参加者から見れば余計な遊びである。遊びが過ぎれば「何だ、お前は!」ということになりかねない。ガチガチの思想は息苦しく、時に教条主義的な思想にエスカレートする。そんな堅い頭に柔軟性や多様性を与えるのがユーモアであり、結果的に思想を豊かにすると信じたいのだが。
 

バンクシーは、2003年の空き倉庫を使った個展「Turf War」でも、反戦思想を明らかにしている。例えば、イギリスの元首相ウィンストン・チャーチル(1874~1965)の肖像画が展示され、そのチャーチルを警護しているかのように、エンジェル風の羽根をはやした兵士たちが囲む、といったインスタレーション作品(図6)がある。兵士たちの顔はやはりスマイルフェイスだが、銃をもった臨戦態勢にある。チャーチルはナチスから祖国を守った英雄という見方とともに、好戦的な政治家としても知られ、人種差別主義者との批判も強くある。

吉荒夕記の『バンクシー 壊れかけた世界に愛を』(注2)によると、個展タイトルそのものが「領土や支配権を争う戦争」を意味しているし、また、モヒカン頭に描かれたチャーチルの頭髪部分が1990年代初頭の湾岸戦争の寓意という複雑な風刺になっている、等々、なかなか手の込んだ表現なわけである。

こうした寓意などを複雑に織り込んだ風刺こそ、18世紀イギリスの国民的画家ウィリアム・ホガースの得意技であった。ホガースについてはあらためて検証したい。

図4、5、6

(注2) 吉荒夕記『バンクシー 壊れかけた世界に愛を』美術出版社、2019年。

泡のハンマーで何ができる?

2015年、バンクシーはテーマパーク的イベント「Dismaland」をイギリスの地方都市で開催している。合法的な催事だが、ディズニーランドの真逆をいく、陰鬱をテーマとしている。吉荒によると、公式パンフレットには、ドイツの劇作家ブレヒトの言葉「アートは現実を映し出す鏡なんかじゃなく、それを形作るハンマーだ」からインスピレーションを受けた、と記されているという。「でも、もし、鏡のホールにいるならどうなる? 巨大なハンマーが泡でできていたとしたら?」とも。全文を入手していないので詳細はわからないが、バンクシーがブレヒトのこの言葉に反応したというだけでも、たいへん興味深い。

ナチスに追われ亡命を余儀なくされたのがベルトルト・ブレヒト(1898~1956)である。ドイツ市民権を剥奪され、著書は発禁・焚書の対象とされた。ブレヒトの友人である思想家ヴァルター・ベンヤミン(1892~1940)などは、追手から逃亡する途中、自殺(暗殺の可能性も)に追い込まれた。現実は時に表現を圧殺する。いや、しょっちゅう圧殺する。そして、圧殺といえば、殺されはしないまでも、権力に追われ続けるのがグラフィティ作家の宿命。日々、逃げ回りながらいたずらをするネズミこそ、まさにバンクシーなのである。ブレヒトに共感しつつも、その不幸と限界を知っていて、なにがアートだ、なにが表現の自由だ、泡のハンマーで現実など変えられるものか、と思ったかもしれない。まあ、勝手な推測だけど。
 

2005年、バンクシーはパレスチナに出かけ、分離壁その他に作品を残している。風船に運ばれて壁を乗り越える少女を描いたり、壁が破壊されているかのように描いたり。それらは分離壁の不当性を強く訴える内容の風刺画である。美術家にありがちな、旅の途中に絵で自分の痕跡を残す、といった自己満足的な次元ではない。それどころか2017年には分離壁のすぐ横にホテル「The Walled Off Hotel」を設立するなど、パレスチナに執拗なこだわりを見せている。ホテル内外ではバンクシー作品を多数鑑賞できるし、観光客もそれが目的でやってくるわけだが、それがバンクシーの狙いではない。

ホテルの一室から外を眺めると、分離壁の向こうには、パレスチナ側の貧しい街とは大違いの、イスラエル人の近代的で裕福な街並みが見渡せるという。通称「世界一眺めの悪いホテル」から見えるのは、無粋な壁やこの光景、分断と格差の現実である。

ホテル内には小さなミュージアムがあり、パレスチナ問題の歴史的検証や現在をテーマとしていて、吉荒は「いつもの悪ふざけではなく、ものを通して真実のストーリーを語ろうという姿勢が貫かれている」と記している。吉荒の指摘は重要で、現実問題の重視に私たちを導く。
 

移民救助のバンクシー船

バンクシーは、表現で完結することに満足せず、現実への直接的なアプローチを望んでいるのではないか。ホテル設立がそうだし、真面目すぎるほどのミュージアム企画もそうだ。また、ホテル内には小ギャラリーがあり、ホテルから自立した形になっていて、パレスチナ人キュレーターによって運営されている。ロビーにはグランドピアノが置かれ、地元ミュージシャンによるジャズやDJのイベントが週一回行われるという。地域に根を下ろそうとする活動である。 

これらは一個人の表現活動の枠をこえた行動であり、控え目に見ても文化運動、パレスチナの特殊事情の中では社会運動の一歩手前である。なるほど社会の現実を変えようと思えば、社会運動の方が効果的である。しかし、自分一人とか一部の協力者との関係だけでやってこられた表現活動とは大いに異なる。多くの人々、様々な考え方や様々な欲望をもった人々と向き合い、組織し、リードし、運動を拡大していかねばならない。表現次元とは別種の課題を抱えることになる。

吉荒はその辺りもしっかり見ていて、地元には、バンクシー作品を宝探しのように探す観光客への批判があるし、バンクシーが一握りのパレスチナ人にしか接触しないことへの不満なども出ていると指摘している。バンクシーの活動スタイルが引き起こす、やむを得ない結果なのだろう。が、そうした個人性よりも、表現と運動の根本的な差異、先ほど述べた次元の違いが原因だと見ることも可能だ。

図7

バンクシーは、移民(難民)問題にも深い関心をもち、多くのストリート作品を描いている。「シリア移民の息子」(図7)もその一つだ。彼は主張する、移民が国の富を奪うというのは間違いだ、大企業アップルのスティーブ・ジョブズはシリア移民の子であり、彼の父を受け入れたアメリカは莫大な富を得たではないか、と。ちょっと強引なストーリーだが、アメリカの活力の一因が移民を受け入れてきた包容力にあることは確かである。
 

2020年、表現活動の枠に収まらないバンクシーの活動が明らかになった。私はネットニュース(注3)で知ったのだが、見出しは「バンクシーの移民救助船が立ち往生、伊当局とNGOが救援」となっていた。場所はマルタ沖で、8月28日に「バンクシーが支援する移民救助船が200人余りの移民を乗せた状態で救援を要請」したのである。イタリア沿岸警備隊が29日に船を派遣し、衰弱の激しい49人を収容した。残る約150人は、ドイツのNGOと国境なき医師団がチャーターした救助船に移されて移民全員が救助されたという。

バンクシーの移民救助活動への関わりは、ドイツの人権活動家に、電子メールで、どのような方法で協力できるかを問い合わせた2019年9月までさかのぼる。詳細はわからないが、その後バンクシーが救助船ルイーズ・ミシェル号(全長31メートル、ドイツ船籍)を購入し、救助活動を行っていたようだ。

ただし、この直接行動、表現活動でもある。掲載された写真を見るとそれがよくわかる。ルイーズ・ミシェル号にはペイントがほどこされ、「RESCUE」の文字、ハート型の救命具に手を伸ばす少女像などが描かれているので、一目でバンクシー作品であることがわかる。 

移民救助運動への関わり方として、いろいろな選択肢があったはずである。例えば密かに資金援助するだけとか、あるいは名前だけ公表するとか。あえて作品化したのは、その方が運動としても世界にアピールできるという判断なのか。なるほど立ち往生だけでも世界的なニュースになっている。しかし、表現活動と社会運動が、違和感なく溶け合っている、とまでは言い難い。反戦デモの場合は随行者的な立場だったが、移民救助運動では主導者の一人となる。運動への直接的な影響と責任がともなう。
 

(注3) AFPBB News日本(2020/08/30)。
 
 

芸術は前提じゃなく・・・

バンクシーは社会運動的な方面にどの程度関与するつもりなのだろうか。彼がドイツの人権活動家に相談していることが事実なら、謙虚であり、無謀なスタンドプレイといった印象を受けない。救助船の直接行動などは、社会運動家たちの指揮下にあると考えるのが適当なのではないか。

だとしてもバンクシーが社会の現実に対して直接的な関与を望み、試みていることだけは確認しておきたい。

彼は社会問題などの現実の前では自分の立場をストレートに表明する。パレスチナでは反イスラエル政権側に立ち、移民問題では移民受け入れに躊躇しているEUを批判する立場を鮮明にしている。その気持ちに皮肉や冗談の影はない。そういった姿勢があるからこそ、彼の風刺表現は、笑いを追求するエンターテインメントタイプの風刺表現とは一線を画する。現実の中に自分自身を投げ入れながら行う風刺表現なのである。日々変化する社会情勢の中で、どういう現実を受け入れるか、受け入れないか、たえず風刺対象に対する肯定と否定の判断が迫られる表現でもある。
 

これまでの言動から、バンクシーの思想にはリベラルな傾向が強くあると推察される。そうだとすると、反対勢力から容赦のない攻撃を受けてもおかしくはないような気がする。ところが、意外にも、それを和らげているものがある。芸術という観念である。

私は表現からの再出発を唱えてバンクシーを見てきた。しかし、現実には芸術という見方の方が一般的である。表現の特異例なのに、まるで表現の優等生のような扱いを受けてきたのが芸術である。珍重されてきたと言ってもよいし、今の世の中にもそうした気分が残っているようだ。だからバンクシー作品は、その中身がどうであれ、芸術というオブラートに包まれることで、世間的に受け入れられやすくなる。多くの人々から関心をもたれ、喜ばれ、本来なら反対勢力の立場にある人々からでさえ好意的な扱いを受けている。

例えば例の「風船と少女」、高額売買のバカバカしさを風刺したはずだが、大金持ちは、まるで意に介さず、むしろ喜んで細断作品を高額買い取りした。細断の仕方が美的?すぎたからなのか。この程度の風刺の毒など、富裕層には全然効かないということでもある。

東京都の小池知事の行動も好意の一例である。バンクシーは日本にも来ていたらしく、港区の防潮扉にネズミの落書きが残されていた。2019年、本来は取り締まる側にいる小池知事が、「カワイイ」と言って勝手に保護してしまったのである。落書きはあくまで違法なので、本当は消して綺麗にしなければいけないはずなのだが。雑誌のインタビュー(注4)で記者から「落書きとして清掃する作品と保護対象になる作品との違いは、ある一定の国際的評価があるか否かということでしょうか」と問われ、小池知事は「はい」と答えている。ただし違法なので、落書きを「推奨するものではありません」と。なんかヘンだが、違法でも、芸術のオブラートに包まれて、ネズミは難を逃れたわけである。

一般市民の中にも「芸術だから」といった気持ちがあり、小池知事の思いつきを許したのであろう。しかし、他方には、「芸術だから」では許されないケースもある。

同じく2019年、巨大アートイベント「あいちトリエンナーレ」内の小企画展「表現の自由、その後」もその一つで、反対勢力から攻撃を受けた。電凸(電話突撃)というらしいが、出品作を批判する電話を主催側の行政機関にかけまくり、業務をパンクさせる攻撃手法である。それが功を奏して、たったの3日で公開禁止となった。あっという間の白旗であり、主催者側には抵抗の痕跡さえ見あたらない。

もともと問題視された作品を集めた展覧会であったわけだが、それだけが原因とは思えない。かつて芸術が保持していた特権的な威信が失墜していることを、それはもうわかっていることなのだが、あらためて再認識させられたのである。詳しくは、このサイトの第19回「珈琲茶会」解説に書いているので、そちらを参照していただきたい。
 

「芸術だから」が、そのままでは通用しない時代である。こうなると、先ほどの違法ネズミの件もふくめて、否応なく、いったい「芸術って何なの」と、自問しなければならなくなる。その意味で、バンクシーは先駆的なのである。バンクシーにとって「芸術」は前提じゃなく、「権力、権威、社会問題」と同等、あるいはそれ以上に重要な風刺対象になっている。芸術の内と外、彼はその境界線上で思考し、活動しているのである。次回はこの境界線上に現れる問題を探ってみよう。

(注4) 「小池百合子さん、なぜ『カワイイねずみ』を保護したのですか?」『カーサ ブルータス』2020年3月号
 
 

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