研究紀要

2017年4月16日 第7回 珈琲茶会

■茶菓子解説

■ 茶菓子提供者 三頭谷鷹史(美術評論家)

美術の終末、芸術の終末 ①

美術が終わろうとしている。ただし洞窟壁画とかエジプトの秘宝とか、あるいは宗教美術、等々の長い長い美術の系譜が途絶えるわけではない。また、実用や装飾、娯楽などと融合する形でなら、今も未来も、美術は力強く生き延びていくに違いない。終わるのは、近代的な芸術観によって価値付けられた美術、いわゆるファインアートである。芸術性に対する信仰が薄れ、結果として美術が終わろうとしているのである。芸術性の衰退が問題なわけで、だから正しくは美術というより芸術の終末である。

他の芸術分野の音楽、文芸、演劇、等々も同様な流れのなかにあると思われる。ただ私が自分の知識と実感で把握できるのは美術なので、美術を中心に語らせてもらうことにする。また、長い時間をかけて形成された西洋の芸術観と、その移植によって生まれた日本の近代芸術観との間には隔たりがある。自分が実感できるのは後者にすぎない、ということも了解願いたい。

今回は、美術に対する私自身の意識の変化を思い出しながら考えてみようと思う。

不健康な精神状態

美術の終末はどの程度実感されているのだろうか。6、7年前だったと思うが、若いフリーのキュレターに「美術もとうとう終わるね」と言ったらキョトンとされて驚いた。美術関係者なら、美術の終末、少なくともその予兆を感じ取っていて当然だと思い込んでいたから驚いたのである。しばらくして自分の間違いに気づいた。若い世代にとってはその時代の美術が大前提であって、自分が体験していない時代と比べての判断はむずかしい。それに6、7年前も今も、各種の美術展が華やかに開かれ、巨大アートイベントには何十万人もの観客が訪れ、一部の有名美術家は巨万の富を手にしている。だったら美術の終末を語るのは早計ではないのか。

しかし、今、私の周辺では「終わり」を意識した会話が増えていることも事実なのである。「終わり」という言葉こそ口にしないけども、終わりを前提にした「あきらめ」の感情を抱えて会話を交わすこともある。不健康な精神状態であり、こんなダラダラとした状態を続けるのなら一刻も早く美術を終わらせた方がよい。最近はそんな心境になってきた。死があってこそ再生がある。

美術も死ぬことがある

私は1970年前後から現代美術に関わった。60年代美術の熱い空気をちょっぴり吸い、ちょっと暗めの70年代美術の時代は雌伏し、現代美術が市民権をえていく80年代に表立った活動の場をえた。それが瞬く間に「失われた10年」の時代へ、そのまま00年代美術・・・。これぐらい長く美術に関わると、美術が生き物であり、死ぬこともあるという感触がつかめてくる。

1990年代に入った頃から弛緩気味の現代美術に苛立ち、1992年の『新美術新聞』のアンケート(注1)に応えて「見かけ上の活況にもかかわらず、確かに美術は衰弱しつつあると思われる。美術の危機的な姿を直視すること、それだけが命綱である」と書いた。当時、文化的な意味での根なし草であった現代美術を疑い、伝統との連続性を保つ現代いけばなに関心をもち、美術といけばなを横断する見方を模索し始めていた。この年の10月、いけばな作家のかとうさとるに協力してもらって(財)岩田洗心館で現代いけばな展「鈍牛庵の華」(注2)を開催している。

(注1) 『新美術新聞』1992年12月11・21日号、美術年鑑社 特集「回顧と展望」

(注2) 「鈍牛庵の華」 財団法人岩田洗心館(愛知県犬山市)の展示室と岩田家所有の書院、茶室、東屋、庭を会場に開催した現代いけばな展。1992年10月4日~25日。関東から假屋崎省吾と坂田純が参加。地元から若手いけばな作家のアマノエリカ、佐伯千佳、柴田善弘、水谷俊之が参加した。

現代美術、自由の形骸化

その後も現代いけばなへの関心を深め、1994年にこんなことを書いた。「(現代いけばなは)日本の伝統文化の土壌に根ざした現代化という独自の可能性を秘めていると言える。日本画なども抱えている課題であるが、日本画が洋画との奇妙な均衡に妥協している現在、日本画以上にラジカルに伝統と現代を問い詰めていくかもしれないのである。また、破格の自由をえて、思うままの造形を獲得してきた現代美術が、その自由の形骸化を避けられず、急速に精神性の衰えを見せはじめている。この日本の文化状況を踏まえるなら、美術の近代的な枠組みを再検討し、生け花その他の隣接ジャンルを含めて、精神性の奪回を心する必要がある」(『とよた文協』№18 注3)。

翌年の1995年には、長く連載執筆してきた毎日新聞(中部本社)と朝日新聞(名古屋本社)の美術欄を同時に辞退し、自分の基本軸を美術状況から一歩退いた所に置くことにした。「なぜ辞めるの?」と知人たちには不思議がられたが、自分の足場をはっきりさせないと次が見えてこないと考えたのである。ただ、この頃に意識した問題は、あくまで現代美術の衰弱であり、美術の終末を予測していたわけではない。そこに至るには別の要件が必要であった。ファインアートを志望する若者の減少である。

(注3) 「美術の近代的な枠組みを再検討」『とよた文協』№18号、豊田文化協会、1994年6月

格を高めるサブカル

私は1992年に芸術系短大の教員となった。公務員からの転職である。学校の仕事についての最初の打ち合わせで同僚教員が語った言葉を今も覚えている。学校への転職は「三頭谷さんにとってよかったのかどうか、公務員のままの方が・・・」というのだ。すでに少子化の影響で大学はゆっくりと下り坂にあったから、その同僚には将来を危ぶむ気持ちがあったようである。のちに姉妹関係にあった四年制大学に統合されるが、少子化への対応であり、経営的努力が必須の時代となっていたのである。
 芸術系大学の場合、少子化だけが問題ではなかった。ある時期から若者の求めるものが従来の芸術系大学の方向とは違ってきたことに教員たちが気付くことになる。美術(芸術)から若者の心が離れ始め、他方では若者に浸透していたサブカルチャーが存在感を示し始めていた。サブカルチャーのメインカルチャー化である。格を高め、大学教育に取り込みやすくなった。私の勤めていた大学では2007年にマンガクラス(のちにマンガコースに拡大)を発足させているから、その数年前には多くの教員が変化の兆しを感じ取っていたはずである。

もちろん美術の終末という自覚があっての改革ではない。ファインアート系コースの学生減少を、マンガ・アニメ・イラストなどのサブカル系コースの新設で補う、そんな意識だったと思う。従来の芸術系大学はアートとデザインの二本柱というのが普通だったが、ここに第三勢力としてサブカルを加えるという、三本柱への移行が始まったのである。

第三勢力の成長

1990年代の半ば頃からだったと記憶するが、自分の授業の一部でマンガを講義するようにした。学生の反応は様々だったが、「マンガは空気のようなもの、授業として聞くのは不思議な感じ」といった感想もあった。それはあくまで個人授業の範囲だったが、正式のコースが設立されたのちは教育状況が一変する。大学図書館でもマンガを大量に買い込むし、図書館でマンガを読むのも勉強ということになる。その光景はマンガ好きの私でさえ軽いカルチャーショックを受ける。もちろんアニメ、イラストなども同様に広がり、第三勢力は確実に成長していった。わずか数年で状況は変わっていき、2010年、私は次のように書いている。

「今の今、文化の地殻変動が始まっていて、(中略) 芸大のイメージが大きく変わるような気がしている。コースの新設や再編成があり、漫画やアニメーション、イラストレーション関連のコースが生まれ、それらの学生数が最近の傾向では全体の3割を超えようとしている。かつてはサブカルチャー、あるいはそれに近い位置づけであったジャンルである。あくまで数値は目安にすぎないが、ほかのコースでもサブカルの影響があるので、その数を加えればもっと多いはずだ。4割と見てもよいし、5割も間近に迫っている」(『あいちアートの森』図録 注4)。

もちろんサブカルに門戸を開いている芸術系大学はなお一部であり、逆に一般大学が類似したコースを設けている場合もあるから、なかなか複雑である。(注5)

(注4) 「〈あいちアートの森〉私見」『あいちアートの森』図録、あいちアートの森実行委員会、2010年3月 ※「美術の終末」とは書かなかったが、事実上の終末論を内容としている。

(注5) サブカルの盛期は過去のことであり、すでに次の文化の巨大な波が人の心に深く浸透していると見るべきであろう。当然ながらネット中心の文化だが、今回はそこには立ち入らず、美術の現状を語ることに専念する。

アートイベントの傘の下で

アートイベントも美術ジャンルに大きな影響を与えている。各種アートイベントに出品される現代美術作品がいつの間にかエンターテインメント的要素を加えてイベントアートとでも呼ぶべきものに変質している。「変質」と書いたが、見方によっては美術の新しい「展開」ということにもなる。果たしてどちらなのか。

先の図録は、愛知県美術館を中心にして組織された「あいちアートの森実行委員会」が2009年12月から翌年の3月まで企画開催したアートイベントの記録である。文化庁が「地域文化芸術振興」を目的として補正予算を組んだのが資金源で、愛知県では都市部と山村離島の県内6カ所で現代アートの展示、ワークショップ、ダンス、パフォーマンスを行うということになった。北川フラムが新潟で立ち上げた「大地の芸術祭」によく似たアートイベントである。

「あいちアートの森」の半年後には「あいちトリエンナーレ」が始まり、私の住む中部地域では現代美術の多くがイベントの傘にすっぽり覆われることになった。この地域の若手美術家の目標は、とりあえず「あいちトリエンナーレ」に取り上げられること、そんな空気が生まれてきたようである。

イベントは栄え、美術は衰退する

少し振り返ってみれば、2000年以降、アートイベントが大きく躍進したことがわかる。飛躍の中核にあるのが観客動員数である。2000年の第1回「大地の芸術祭」が16万人、その後毎回増えて、2009年の第4回は37万人となった。また、新たに開催された2010年の「瀬戸内国際芸術祭」は93万人である。精査した数値ではないのと、その後は未調査であるが、観客の飛躍的な増加は明らかである。

ただ、この間、若者の美術志向が激減してきた事実を思い出す必要がある。イベントの楽しさや意義を否定するつもりはないが、美術というジャンルが衰退していく過程と重なるのだ。一方でイベントが栄え、他方で美術が衰退するのである。イベントだけではない。2000年以降、美術ジャンル衰退と逆比例するかのように、大いに栄えたものは他にもある。それは・・・
≪美術の終末、芸術の終末② につづく⇒≫