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岩田洗心館の歩み

沿革

財団の寄付設立者である鈍牛岩田錦平は、自ら蒐集した書画茶道具及び岩田家伝来の諸道具類約540件の一括保存ならびに公開を図り、美術館の創設を計画したがその途中で急逝した。

そのため、嗣子忠夫夫妻がその志を継ぎ、昭和45年11月26日に財団法人岩田洗心館を完成、開館した。

平成19年、犬山市庁舎の移転新設事業に伴い、移転する運びとなり旧館を解体。平成23年4月1日、旧所在地の北側に新館を開館した。

特色

所蔵品は、書・画・陶磁器類・茶道具・漆器、その他を含めて約700件1800点余りを数えるが、その内容は、大別して、

(1)犬山城下の富裕な商家であった岩田家の家財道具中美術的価値があると思慮されたもの

(2)同家歴代の蒐集にかかる茶道具類

(3)鈍牛の蒐集にかかる茶道具類、近代日本画

となる。

岩田家の記念館というおもむきがつよいが、特に、(1)及び(2)については、文化文政頃から明治にかけて隆盛を誇った白帝城下の町人文化の一端を窺わせるものと言える。

また、その他にも犬山焼約40件、初代館長、帚艸亭岩田正人の蒐集にかかる近世俳人作品約140件などがある。

幕末・明治期の犬山商家 岩田家と洗心館

文:横山住雄

岩田家は一宮市の旧葉栗郡域から犬山城下町(中本町)へ進出した。犬山城下町は、新道筋・大本町筋・愛宕町など外周に武家屋敷を配し、本町・練屋町・熊野町・魚屋町・鍛冶屋町など中央部に商家を配する構成になっていた。その中で、本町(上本町・中本町・下本町)は大店が並ぶ文字通り犬山の目貫通りであった。その中本町へ進出したというのだから、犬山での初代岩田善兵衛(安政三年、一八五六,五月十五日没)は、犬山進出に当って犬山の地と何らかの縁故が有ってのことであったのは間違いない。たとえば、その妻、釈尼妙慶(文政五年没)が犬山本町の商家出身であるとかであるが、そのことは取材出来なかったのでわからない。

犬山での商家・岩田家

岩田家が犬山中本町で店を持ったのは文政初年(一八一八)頃かと思われる。初代岩田善兵衛の妻妙慶が文政五年(一八二二)十二月二十七日に亡くなっているので、生前の出店と見てそのように思う。犬山では薬種問屋を営んだといわれている。二代目安兵衛は父より早く、天保九年(一八三八)に亡くなり、三代目安平も祖父善兵衛と同じ年(安政三年、一八五六)に亡くなり、家業は四代目の治右衛門は二十年ほど家業を営み、明治十年(一八七七)に亡くなった。長女きと(大正十五年没)の夫・治平が家を継いで、明治四十年まで営業した。きとの弟妹たち四名は早世していたことになる。特に妹のお梅が元治元年(一八六四)五月二十二日に十九歳で亡くなり、弟の庄治朗が同年十二月二十三日に三歳で亡くなったことで、薬種問屋をやめて油問屋(灯明油売り)に商売替えをしたようである。治平のあとは、二男・源治郎が継いだものの、子なく大正十三年に亡くなった。それで弟(四男)の錦平が家を継いだ。家業の油問屋は、電灯が引かれた大正期までの操業だったのではなかろうか。

岩田源治郎は、大正のはじめ犬山町会議員をしており、私立犬山幼稚園(園長土岐鉞太郎)を犬山町に移管するのに尽力した(昭和六十年『岩田洗心館報』創刊号、岩田正人「土岐きなむ堂のこと」)。源治郎の兄・円太郎は家業を継がず、俳句に親しみ「圓山」との俳号で活躍した。

針綱神社には、岩田治平が寄進した石造狛犬が一対あり、台座の裏に、

「征露戦嵂紀念」

とあり、背面には、

「明治三十八年四月
 岩田 治平
 岩田円山
      謹書 」

と刻まれている。岩田家の盛時を知る史料である。

岩田洗心館の運営

源治郎のあとを継いだ七代目錦平は、昭和二十七年頃に犬山町長であった(犬山用水土地改良区沿革誌)。昭和二十九年四月を期して犬山市が発足することになり、建設用地として現在の市庁舎のことろ約千坪を寄付した。さらに残余の土地が千坪あり、錦平の後継者・忠夫は、その土地に岩田洗心館を建て、同家に所蔵する文化財を展示する博物館として運用することにした。館長は忠夫の卒去(昭和五十五年)後、遺志を受けたその子の正人が完成させ、正人の卒去(平成二十一年)をうけて岩田紗絵へと引き継がれている。

岩田家のこと

岩田家のこと

わたくし達岩田一族の祖先が尾張犬山の地に居を構えるようになったのは、現在残されている位牌から知ることの出来る記録によると、江戸時代中頃(18世紀末頃)のことと思われます。

今となっては、どこまで確かな筋の情報であったのか定かではありませんが、生前父に聞いた話によれば(その父も、洗心館を訪れた、家紋を同じくするとある岩田氏に聞いた話であったそうです)、その昔岩田家は、伊勢神宮に奉納米を納める農民の血筋であったのが、女子を良家に嫁がせることによって大きくなった家であるらしい、ということでした。

その後、源平合戦の折に平家側について戦に敗れると、三百年あまりに渡って伊吹山中に隠れ住み、その間身に付けた山野草に関わる知識を活かし、山を降りては薬草を売り歩いて生業を立てた、という内容の伝承があるそうです。

偶然にも我が一族の祖先は、犬山の地で「伊勢屋」の屋号のもと、代々薬問屋を営んでいました。

一宮の「浅井の膏薬売り」として名高い一族とも血の繋がりがあった、という話も聞いています。

しかし、江戸時代末頃に薬問屋から油問屋に鞍替えをしており、以降は、油問屋として大正時代まで商いを続けました。

岩田洗心館の創設者である岩田錦平は、岩田家が犬山へ輿を落ち着けてから七代目の家督継承者に当たります。

五代目・治平の息子で、四男三女の七人兄弟(①円太郎②源次郎③お梅④お京⑤行馬⑥錦平⑦(不二子の実母))の第六子として生まれました。

当時は、次男以降の男子は家を離れて独立するのが当たり前であった時代で、四男であった彼もご多聞に漏れず、十代で一人中国の大連へ渡り、自らの生計を立てていたといいます。

ところが、自分の死期が近いのを悟った六代目・源次郎(錦平の実兄、七人兄弟の次男)に日本へ呼び戻され、源次郎夫婦と養子縁組を結ぶと、養父となった兄亡き後、七代目当主として家督を継ぎました。

源次郎の後をとった錦平は、最初の妻を迎えますが、生憎、この身体の弱い妻との間に子を授かることはありませんでした。

そこで、実妹の嫁ぎ先であった名古屋の野々垣家から、姪を一人養女にもらいうけました。

これが祖母の不二子です。

不二子の実父の勇(いさむ)もまた、岐阜から野々垣家に養子に来た身で、本名を青木勇といい、横浜へ養子に行き財を築いた青木富三郎(三渓原富三郎)の一番末の弟でありました。

錦平が蒐集した近代日本書画作品の中にある三渓の書画は、どうやらこの縁を利用して描いてもらったもののようです。

錦平は病弱であった一人目の妻を早くに亡くすと、大連で知り合った女性を呼び寄せ二人目の妻としました。

この女性との間にも子が生まれることは無く、養女の不二子を唯一人の跡取り娘として育てました。

源次郎の時代に伊勢屋は暖簾を降ろし、地元でいうところの“しもた屋“(店仕舞いした問屋)となったようで、錦平の時代、祖母が物心ついたころには、もう商いをしている形跡は無かったそうです。

このころには、何をしなくとも、地代や家賃として店子や小作人の納めに来る金や米やで十分に生活していける状態であったといいます。

つづく

文:岩田紗絵