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珈琲茶会
珈琲茶会

第15回 珈琲茶会

   

2018年12月16日(日)
午後1時30分 書斎カフェにて
初座1時間/後座(懇親会)1時間
会費五百円(入館料含む)

■本日のcoffee いつもの銘柄
  ■本日の茶菓子 女たちのいけばな/犬山版
  ■茶菓子提供者 三頭谷鷹史(美術評論家)

■茶菓子解説 

いけばなといえば女性、というのが今日の常識である。そして昔から女性専科だったと思っている人も多いのではないか。しかし、そうではない。江戸時代までは男性中心の教養や遊芸であり、その江戸の終わり頃から徐々に女性が増え、明治以降は確実に増加していった。大正期に入る頃には女性中心の文化になっていたようなのだ。別の見方をすると、明治以降、大きく衰退する可能性のあったいけばなを大繁栄に導いたのは女性の参入であり、いけばなは保護される無形文化財になるどころか、生き生きとした大衆文化への道を歩んだ。女性は近代いけばなの主役であり恩人だったのである。

いけばな以外でも、一般に伝統的と呼ばれる分野、例えば茶の湯、書、能、歌舞伎、和服なども女性によって成立している。男が演じる能や歌舞伎を同列に語るのはおかしいと思われるかもしれない。が、その観客や支援者となると今では圧倒的に女性であり、これらもやはり女性の支持によって成立している、ある意味、女たちの文化と言わなくはならない。さて和服だが、これについては考現学に面白い記録がある。

関東大震災の翌々年の1925(大正14)年、『婦人公論』の肝いりで今和次郎や吉田謙吉らが銀座風俗を調査した。京橋から新橋までの区間で、歩道を歩く人の様々な風俗を調査しているが、洋服と和服のどちらを着ているかということも調査された。そして、その男女差が面白い。男の洋服着用率67%に対して、女はたったの1%だったのである。翌年の夏にはモガ・モボの名が生まれた時代の銀ブラだけども、意外な結果に驚かされる。今和次郎も「この数字に、きっとだれでも疑いをもたれることと思いますが、いくど繰り返してみても同じ」(注1)結果だったと記している。当時でさえ予想外の数値だったようなのだ。

この結果はいろいろな議論を呼びそうである。表舞台は近代的な洋服の男たちも、家に帰ったら和服では?とか。和服は女たちの自発的な選択?いや男たちの願望を映し出しただけ、等々。ただ、女性が和服を着続けることで、和服文化が大いに繁栄し、延命してきたことは確かである。もちろん今ではそれも危なくなってきているが。

女性たちの和服選択に男たちの願望がどこまで反映されていたのか、これはなかなか難しい問題である。明治政府は国際競争に打ち勝つため、新国家の目的に沿った女性、いわゆる「良妻賢母」の育成を考えていた。そのため、ある程度の女子教育が必要ということで、1899(明治32)年に各府県に最低1校の高等女学校を設置するように義務づけた。女学生は増加し、「授業+お稽古ごと」というライフスタイルが確立していく。女学校と女子大学校の生徒を総称して女学生と呼んだそうだが、彼女たちは「女子の堕落」との批判を受けるほどに自由闊達で、新しい流れを創り出していく。女学生や卒業生の一部は跳ね上がり、過激なところでは「学生時代と同じに袴を低くはき、白鞘の短刀を隠し差しに、足には日和下駄という姿」で闊歩する平塚らいてうがいて(注2)、「新しい女」への準備をしていた。

もちろん新しい女はほんの一部である。が、彼女たちが近代女性の気分や時代の空気を代弁していたと言えないだろうか。男の願望もあるが、近代女性の欲望も歴然と登場していたことに目を向ける必要があるだろう。なお、らいてうとともに「青鞜」を創立した5人の中に物集(もずめ)和子がいて、事務所が彼女の自宅に置かれていたため警察の家宅捜索を受けたことがある。彼女はのちに文人生けの西川一草亭の門に入った。

「授業+お稽古ごと」の広がりは、いけばな大衆化の大きな要因になったと思われるし、のちに花嫁修業の一つとして数えられるようになるその原型でもあるだろう。しかし、近代的文化としての骨格を与えたのはもう一つの要因なのではないだろうか。近代日本では女性の社会進出があり、教員、看護婦、事務職、店員などに女性が参入し始めていた。らいてうたちの『青鞜』が産声を上げたのは1911(明治44)年だが、彼女たち「新しい女」のような華々しさはないけれど、無名無数の女性が良妻賢母の枠をはみ出して職を求めた。いけばな界にも同様な動きがある。もちろんお稽古ごとが広がることで職業化の道が開けたのである。が、そのきっかけに不幸と苦難があったということも少なくない。家族の死によって、とりわけ日露戦争などによって父や夫を失った戦争未亡人たち、彼女たちの一部は生きていくためにいけばなを職業として選んだのである・・・・。(未完)

注1 今和次郎「東京銀座街風俗記録」『考現学入門』ちくま文庫、1987年 (初出『婦人公論』1925年7月)
注2 堀場清子『青鞜の時代』岩波新書、1988年

三頭谷鷹史(みずたにたかし) 略歴

1947年愛知県犬山市生まれ。同志社大学卒。美術評論家連盟会員、名古屋造形大学名誉教授。1970年代は美術、写真、演劇、パフォーマンスなどのジャンル横断的な表現活動をおこなった。80年代以降は美術批評を中心に活動し、90年代以降はいけばな批評も手掛ける。著書に『前衛いけばなの時代』(美学出版)、『宿命の画天使たち 山下清・沼祐一・他』(美学出版)。共著に『日本美術全集 第17巻』(小学館)、『日本の20世紀芸術』(平凡社)、『美術の日本近現代史』(東京美術)などがある。

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過去の珈琲茶会
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