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珈琲茶会
珈琲茶会

第18回 珈琲茶会

  

2019年7月14日(日) ■終了

午後1時~ / 初座1時間 後座(懇親会)1時間
於・書斎カフェにて

■本日のcoffee いつもの銘柄
■本日の茶菓子 「遍在する〈制作〉について」
■茶菓子提供者 中島智(芸術人類学)
◆今回の世話人 三頭谷鷹史

■茶菓子解説

「遍在する〈制作〉について」 中島智

以前、慶應大と武蔵美の学生たちに呼び掛けて、「ブリコラージュ調査」というのをやったことがある。ブリコラージュとは、簡単に言ってしまえば転用のことであり、なにかを別の機能・意味へと見立てることである。この調査では、80名の学生たちにSDカードを配布し、各自のデジカメで、リストに添って自宅を撮影してもらった。まずは「玄関周りに置いてあるもの」からはじまり、「布団の柄」まで、100項目ほどの撮影リストである。おそらく、ここで「なぜ置物や装飾柄がブリコラージュなのか?」という疑問が投じられるかもしれない。もっともである。ここではブリコラージュ概念を、さらに人々のモノの選択や、生活空間への配置、そうしてできた〈しつらひ〉全体にまで、敷衍して考えていたからである。

その前提には、ながらくの問い、すなわち「ひとはそれぞれの生活空間で、すでに制作をしているのではないか」という問いが横たわっていた。というのも、僕自身、講義などで美術作品とはなにか?を説明するさい、しばしば用いていた喩えが「作品をみることとは、つい先刻まで誰かが暮らしていた個室を訪ねるような体験」だったからである。部屋は、その住人によって制作されている。そこには住人のさまざまな無意識が散りばめられ、しつらえられている。作品とは、誰かがそこでなにかを行なった〈痕跡〉であって、それはまるで無意識のしつらえを眺めながら、その住人の〈欲動〉、ひいては〈生〉にふれる契機にほかならないのだ、と。

僕がそんな話をするのは、美術大学にかかわらず、美術にかんする学校教育一般において、作品とは「作者の表現内容を、他人に伝達するためのツール」と位置づける、誤った作品観、もしくは美術観が教えられてきたからである。そこでは、制作とは〈再現〉でしかなく、制作という行為のなかでさまざまな非自己と対話しつづけながら、作品とともに自己変容をおこしていくことが、まるで抜け落ちている。むしろ、自己変容なき制作というものはあり得ず、制作の本質はそこにあると言っても過言ではないはずなのだけれど、このことが文科省指導要綱において、まったく無視されているのである。だから、あえて制作について語らなければならなくなる。

その対象が「美術」か「アート」かにかかわらず、あるいはそうしたもののみならず、制作はどの民族社会にもみられるヒトの欲動としてある。それがなんのために存在する欲動なのかは、それぞれの社会システムがそれぞれの意味づけをしているだけの話である。そして、それを「美術/アート」と呼んだ時点で、そのように位置づけた社会においては、「美術/アート」以外にみられる制作は「美術/アート」に無関係か、無意味な遊びのたぐいとして見做されてしまうことになる。それは不幸なことだと僕には思われる。なぜなら、そうしたシステマティックな視点や、思考からは、「美術/アート」に潜在している〈欲動〉や〈生〉もまた、直視されなくなってしまうからである。

どこにでも遍在し、どこにでも症候している〈欲動〉や〈生〉が、端的に、その居場所を認められ、噴出しているのが、「美術/アート」とよばれるアジール的な、あいまいな領域なのだけれど、その視点がなければ、それらは「活用できる文化資産か、否か」といったレベルで選択・淘汰されていくだけとなる。そうした文化政策はすでに文科省を出先機関として構想されつつある。そこにみられるのは、「それを生かさなければ、それは死んだままである」という安易なマネージメント思考である。だからこそ今、大切なのは「それを生きたままにしておく」ための視点ではないだろうか。

中島智(なかしま・さとし) 略歴

つい半世紀ほど前に、倉敷の港町に生まれる。在野の研究者として各地をフィールドワーク、『文化のなかの野性─芸術人類学講義─』現代思潮新社(2000)を上梓。現在、武蔵野美術大学非常勤講師。

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過去の珈琲茶会
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第2回 2016年4月17日 三頭谷鷹史(美術評論家) 夏目漱石の病、暴力、アウトサイダー・アート
第3回 2016年6月19日 田中美智甫(いけばな/嵯峨御流) 花手前(はなてまえ)
第4回 2016年10月2日 三頭谷鷹史(美術評論家)
                夏目漱石の病、暴力、アウトサイダー・アート(2)
第5回 2016年11月27日 大嶽恵子(美術ウオッチャー) 公共空間の彫刻像について考える
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第9回 2017年9月3日 鈴木敏春(美術批評/NPO愛知アート・コレクティブ代表)
                「アール・ブリュットをめぐって」
第10回 2017年11月19日 「大雑談会」
第11回 2018年2月25日 肥田木朋子(元・財団法人かすがい市民文化財団学芸員)
実用とアートの共存から見る「書」
第12回 2018年4月22日 肥田木朋子(元・財団法人かすがい市民文化財団学芸員)
実用とアートの共存から見る「書」 その2
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-赤瀬川原平と岩田信市を手がかりに語る終末論―
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続・1970年代、芸術から風俗へ(美術の終末、芸術の終末③)
第15回 2018年12月16日 三頭谷鷹史(美術評論家)
女たちのいけばな/犬山版

第16回 2019年1月27日 三頭谷鷹史(美術評論家)
まだ続くのか珈琲茶会(反省茶会) 於・Z邸

第17回 2019年4月14日 楠本亜紀(写真評論、インディペンデント・キュレーター)
記憶と記録:コミュニティ・写真・アーカイブ
◆今回の世話人 斎藤絵美
第18回 2019年7月14日 中島智(芸術人類学)
「遍在する〈制作〉について」
◆今回の世話人 三頭谷鷹史