月別アーカイブ: 2016年2月

 

友達は人生を豊かにしてくれる。

その世界観に触れるとき、それは

「人は一人として同じ世界を見ているものがいないのだ」

という孤独な現実をつきつけてくるのに、

なぜかとても愉快な気分にさせられる。

 

たった一つのことばが、七色に変化する。

それは立ち止まるほど美しい、けれど当たり前の光景で、

まるで日の光を浴びる朝露のようだ、と思う。

 

私の生きる世界には、

私の知らない豊かな世界が、たくさん存在しているのだ。

まるで宇宙のようだ、と思う。

 

自分の世界を愛するように、

彼らの見ているであろう世界もまた愛おしいような錯覚を覚えるのは、

私が老い始めた兆しなのだろうか。

 

今日は良き友と三人、楽しい夕べを過ごした。

ありがとう。

 

A君よ、

命そのものに意味などなくとも、

食べて排泄することの繰り返しが煩わしくとも(笑)

生きていることは素晴らしい

そうは思わない?

 

 

 

「文化」って?

 

「文化」

この仕事についてから随分頻繁に耳にも口にもするようになったことば。

いつもその意味を考えているのに、

自分はいまだに使い方を誤ったり、偏見を持って口にしてしまうことが絶えない。

 

人は皆、何らかのコミュニティに属している。

血縁、世代、地域、嗜好、、、様々な要素によって結びついた人の集団。

そして「文化」というのは、そのコミュニティ内で共有される教養

というものを本来指し示すことばのようだ。

 

ならば、「文化」を持たない人などいない。

A級とかB級とか、その質にランクをつける行為も

人がなんらかのコミュニティに属した視点からおこなうことで、

所詮、判定する側の主観でしかない。

(もちろん、最大のコミュニティ単位である「人間社会」全体に共通の差別意識

(器用なほうが優れている、経済的に豊かなほうがすぐれている、etc.)があることで、

その崇高であるなしの判定基準は人間社会における普遍性に近い性質を持ってはいる。)

 

近代、限りなく多様な「文化」のなかの

ハイカルチャーとか上位文化とか呼ばれる教養ばかりがもてはやされ、

そもそもcultureの訳語であった「文化」という日本語の印象は偏ってしまった。

 

”崇高”とされる文化の保護に躍起になっている傍らで、

本来すくいあげ、伝えていくべきだった身近な「文化」である

多様で異なる地域性を内包した庶民の生き様は、

間違ったグローバル化とやらによって急激に変質し、必要な個性を失って、

もはや豊かに幸せに生きる手助けをしてはくれない。

そしてそのことに、

それら文化の従来の担い手であり、世の大半を占める我々庶民は

特段、なんの自覚も危機感も持たない。

 

本当に、これでいいのだろうか。

 

専門外のものには目もくれず、

一般人からしたらどっちでもいい業界内の諸々に頭を占領され、

行政に携わる偉い人に

『「文化」というものは、人間が生きていくために必要不可欠なものではない。』

なんてセリフを堂々と言わせてしまう、

そんな文化保護や発信の仕方は、間違ってはいないだろうか。

 

我々凡人には、”好き嫌い”という、ものすごく強力でデカイ”ものさし”がそれぞれにある。

聖のようになんでも受け入れられる深い懐は、まず無い。

しかし「文化」と称されるなにものかの一端にプライドを持って携わっている以上、

何か一つ自分の好むジャンルや層に特化するにせよ、

「文化」と総称されるものの全容が

如何に大きく多様で豊かなものであるかを常に忘れてはならないし、

大きかろうが小さかろうが崇高であろうがなかろうが、

それぞれの意義はそんなことには関係なく存在する事実を見失ってはいけない、

そう思う。

 

くだらない差別意識にしばられたままでは、

「文化の担い手」とかいう表現も、大抵皮肉に聞こえるというものだ。

今日もまた、反省。