カテゴリー別アーカイブ: 思うこと

「文化」って?

 

「文化」

この仕事についてから随分頻繁に耳にも口にもするようになったことば。

いつもその意味を考えているのに、

自分はいまだに使い方を誤ったり、偏見を持って口にしてしまうことが絶えない。

 

人は皆、何らかのコミュニティに属している。

血縁、世代、地域、嗜好、、、様々な要素によって結びついた人の集団。

そして「文化」というのは、そのコミュニティ内で共有される教養

というものを本来指し示すことばのようだ。

 

ならば、「文化」を持たない人などいない。

A級とかB級とか、その質にランクをつける行為も

人がなんらかのコミュニティに属した視点からおこなうことで、

所詮、判定する側の主観でしかない。

(もちろん、最大のコミュニティ単位である「人間社会」全体に共通の差別意識

(器用なほうが優れている、経済的に豊かなほうがすぐれている、etc.)があることで、

その崇高であるなしの判定基準は人間社会における普遍性に近い性質を持ってはいる。)

 

近代、限りなく多様な「文化」のなかの

ハイカルチャーとか上位文化とか呼ばれる教養ばかりがもてはやされ、

そもそもcultureの訳語であった「文化」という日本語の印象は偏ってしまった。

 

”崇高”とされる文化の保護に躍起になっている傍らで、

本来すくいあげ、伝えていくべきだった身近な「文化」である

多様で異なる地域性を内包した庶民の生き様は、

間違ったグローバル化とやらによって急激に変質し、必要な個性を失って、

もはや豊かに幸せに生きる手助けをしてはくれない。

そしてそのことに、

それら文化の従来の担い手であり、世の大半を占める我々庶民は

特段、なんの自覚も危機感も持たない。

 

本当に、これでいいのだろうか。

 

専門外のものには目もくれず、

一般人からしたらどっちでもいい業界内の諸々に頭を占領され、

行政に携わる偉い人に

『「文化」というものは、人間が生きていくために必要不可欠なものではない。』

なんてセリフを堂々と言わせてしまう、

そんな文化保護や発信の仕方は、間違ってはいないだろうか。

 

我々凡人には、”好き嫌い”という、ものすごく強力でデカイ”ものさし”がそれぞれにある。

聖のようになんでも受け入れられる深い懐は、まず無い。

しかし「文化」と称されるなにものかの一端にプライドを持って携わっている以上、

何か一つ自分の好むジャンルや層に特化するにせよ、

「文化」と総称されるものの全容が

如何に大きく多様で豊かなものであるかを常に忘れてはならないし、

大きかろうが小さかろうが崇高であろうがなかろうが、

それぞれの意義はそんなことには関係なく存在する事実を見失ってはいけない、

そう思う。

 

くだらない差別意識にしばられたままでは、

「文化の担い手」とかいう表現も、大抵皮肉に聞こえるというものだ。

今日もまた、反省。

 

 

それで、誰さんかの?

 

娘と一緒に「ゲゲゲの鬼太郎」のDVDを見ました。

なんか

「それで、誰さんかの?」

と、ひたすら尋ねてくるおじい妖怪の話でした。

でも、名を名乗ると「知らんの。」といわれる。

まそりゃそうだわな…(笑)と思いつつ、

正解はなんなの?と考えていると、

どうも名や職業ではなく、

何者であるか(=いかほどの存在であるか)を尋ねているらしく、

鬼太郎の「名乗るほどのものではありません。」との答えに、

おじい妖怪ははじめて「自分が何者かよくわかっている。」と、

納得の様子で去っていきました。

 

自分はあのおじい妖怪に「それで、誰さんかの?」と尋ねられたら

何と答えればよいのだろうか…と、ちょっと真面目に悩んでしまいました。

 

世の中、つい名前とか、血筋とか、地位とか、、、

そんな飾りものに惑わされて、媚びたり、威張ったり…

大切なのは、裸一貫の自分がいかほどの者であるか、

ですが、そんなことは忘れてしまいがちです。

 

自分の真のすがたに目をそらすことのない生き方を…と、

TVアニメを見ながら、またまた同じことを反省した晩でした(・´з`・)

 

 

 

広い世界

 

早いもので、今年も残りわずかとなりました。

最近は一年経つのがあっという間…

子供の頃は永遠のようだった時間が

いつの頃からか、限りあるものにかわってしまいました。

 

歳はかってにとっていきますが、

そのなかで流していくべきものと、積み上げていくべきもの、

その選択を間違えずにしていくのは、とても難しいことです。

 

なにかにとらわれると、

ものごとの全容がみえなくなってしまうものですね。

気が付いたらいつも自分の足元ばかりに気をとられていて、

広い世界の存在を忘れてしまう。

 

広い世界のなかの、とても小さくても自由な自分を見失わない大人は

永遠の時間を失くすことも無いのかもしれません。

 

そんなことを思う今年の年の瀬です。

 

実体のないもの

 

ブログをはじめて1年になる。

先日、不具合が発生して、今まで書きためてきたものが消えてしまった。

”書きためて”という表現自体、正しくないものかも知れない。

実際には何も”書いて”はいないのだし、

目に見え、理解できる形に置き換える機構を失ってしまった今となっては、

残ったデータも、意味不明な記号の羅列でしかない。

あるとおもっていたものが、実際には無かった

という、現実をあらためてつきつけられ、

なんというか、ぽかーん。。。とした。

 

ITの発達によって、ひどく便利な世の中になった。

ありがたいと思う。

一方で、実体のあるものと向き合う機会を失い、

次第に仮想の存在に対して何の不信感もいだかなくなっていく、、、

そんな自分の姿にふと気付いたとき、

うすら寒いような感覚を覚えるのは、私が歳をとったからだろうか?

こうして、ほとんど何の労力も必要とせず、

不特定多数の人々に向けて一方的に情報を発信できることも、

おもえばとても不自然な状況かもしれない。

 

一日中バーチャルな空間に身を浸すようになったとき、人は

自分が生きていることをどんなかたちで確かめるのだろう。

どんな瞬間に実感するのだろう。

自分の生き様や、生きたあかしを実体にして残そうとする

人間らしく儚い試みも

そのころには絶滅危惧の状況に陥っているのだろうか

それともむしろ、今よりさらに必要とされているだろうか。。。